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骨折、いたしました。

2011.08.02に右足のくるぶし(踝)を骨折をした人の体験記(骨折ブログ)です。 +他にもいろいろ情報あります♪

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さてさて、手術です。
内科から外科に移って手術をして、手術が終わったら経過を見て内科に戻る。という予定。
まずは副腎皮質ステロイドをやめて、血小板の値を正常値に近づける必要があります。
手術当日は、父の同僚や部下の人が成分献血をしてくれて、それを投入予定。
ふじさわ、AB型なので、4人集まってくださったのですが、合ったのはお二人だけ。相当駆け回ってくれたようです。ありがとう、父!
その後(ふじさわが二十代後半の頃)いろいろ、本当にいろいろあったし、やらかしてくれた父だけど、このことだけは感謝しているよ!!
(感謝しているようには思えない書き方ですね、ふじさわ(^^;) ああ、草葉の陰で父が苦笑いしている気がする)

この時、点滴を一週間以上ずっと続けるということに‥‥‥
小さな、キスチョコのような形をした点滴の薬が一瓶、二万円。
に ま  ん  え ん。
母と二人で絶句。
特定疾患で、難病指定されていて、公費対象であっても、最初の支払いは自分で行うんです。労災のように病院でなにも払わなくていいわけじゃないんですね‥‥‥
一ヶ月40万円越えてました。入院・手術費。
あーー、すごい病気に罹っちゃったんだな‥‥‥とこの時に再実感。あーああ。

12月中旬に手術。
手術は全身麻酔なので、麻酔科の方が検査に来てくれます。
全身麻酔だと、麻酔の適性検査があるんですよ!
特に問題がないとのことで、全身麻酔で決定。
前々日の夜から食事がダメになり、前日の夜8時からお水もダメに。
お臍の辺りまで切るので下半身はいろいろ剃毛。
翌日に手術という夜、初めてふじさわに恐怖心が!!
点滴が、腕に入っているということが急に怖くなり、夜中に大泣き。
自分でも吃驚したのですが、手術の恐怖よりも、あの細い針が体内に入っているという恐怖が押さえ切れなくて、泣いては寝て、泣いては寝ての繰り返し。
手術日の朝に看護師さんが微妙なお顔をしておりました。

手術は、手術室に入ったらライトがぱぁっと光り、麻酔しますね~との声と共にぷしゅーと音がして、後は記憶がありません。

気がついたら三日後でした。
お腹が空いて目が覚めた。

でも、お腹が空いてても、腸が動いていないから食べれないとのこと。
手術は無事に成功して、母が疲れた顔をしていました。集中治療室(ICU)にいたのですが、目が覚めたので外科の一般病棟に。三日いたそうです。途中、目が覚めたようですが記憶にございません(どこの政治家だ)。
あ、もう、四日ご飯食べてない!!!
12食も食べてないよ!!!

‥‥‥ワンピースを読んだ時、ルフィが叫んだ言葉に同意したのは私だけじゃあるまい。

目が覚めても、お腹を切ったので動くことも出来ず、ご飯も食べれず(しつこい)、共同部屋だと近くの人のご飯の匂いが‥‥‥なに、この拷問。
私、空腹でおいしそうなご飯の香りを嗅いだら、どんなことも吐く気がします。
秘密なんて守らないよ!
↑ こういう人は仲間にしちゃいけませんね。

で、結局、腸の動きが悪いから‥‥‥ということで、ご飯出るようになったのは手術五日後から。
点滴恐怖症がさらに悪化して、看護師さんたちに泣きつく私。
腸が動き出したので、重湯(おもゆ)が出るようになったのですが、それを二食ほど食べれるようになったら、看護師長さんが点滴を抜く許可をしてくれました。
あー、助かった。

ところで、最初のご飯ですが湯飲みくらいの大きさの
・重湯(おもゆ)→お粥の上澄みのこと
・お吸い物(具なし)
・オレンジジュース(粉を溶いたものっぽい)
でした。
不思議なことに、5日も絶食していたせいか、重湯を半分とオレンジジュース半分でお腹がいっぱい。
うおー。すごい。

小説書く人、絶食した後に、登場人物にどか食いさせちゃダメですよ!!
っつーか、本当に湯のみ一杯分くらいの飲み物でお腹がいっぱいになるんです。

まあ、その次の日くらいには、この量じゃ足りなくなるんですけどね。

3日くらいはお粥生活でした。
重湯→三部粥→五分粥→七分粥と進むのですが、味が飽ーきーーるーーーー。
梅干とか持ってきてもらってたのですが、ちょっと味に飽きてきた。


で、醤油を入れてみた‥‥‥


結論:お粥に醤油は合わない。



ふやけたせんべいみたいで、食べれるけど、美味しくありません。

ちなみに、その後長期入院を経験された男性にこの話をしたら「お粥に醤油は合わないよね!!」と賛成してもらえました。
私だけじゃない!!
美味しくないと思ったのも、お粥に醤油を入れてみた人も!!(^^;)

手術が終わった後は、経過を見て退院です。
この時も、歩けるなら歩きましょう! という感じで、おトイレに一人で行こうとしてトイレのど真ん中でこけた。しかも親戚の前。というのは、今でも苦い思い出。
トイレを親戚とはいえ、手伝われるのってすっごい嫌なんです。
下の世話を嫁にされたくない舅の気分がすっげーわかる。
↑おい。

退院後は三日に一度通院。
その後、週一へ→週二へ→月一へと半年ほどで変わり、それからも三ヶ月に一度は通院をしております。現状は半年に一回くらい。(20数年経った今もですよ!)
血液検査して尿検査して終わり。
まあ、血小板の推移を見てるだけなので。


で、私はこれまでの20数年、なーーんにもなかったのですが、三年ほど前からお世話になっている内科&皮膚科のおじいちゃん先生は会う度に「奇跡の人だ~」と仰います。
脾臓を取ってから、ここまで何もない人は珍しいらしい。

ネットで調べてみると、私は本当に軽いみたいですね。
脾臓の摘出ができる年齢での発症、脾臓摘出が体調に合った。その後の再発も今のところない。

奇跡の人かも。えへvv



それくらい思わないと、その後のあれやこれやそれはないだろうって思うぅぅぅ。
(本当にいろいろあったんです! 一度簡単に書いたけど気分が悪くなったので削除。今も昇り道だけど、平和は平和(^^;)かな。なので父母への思いやりを感じないと思われた方はごめんなさい)

最後に、特発性血小板減少性紫斑病は100万人に11.6人ほどの割合で発症するそうです。
珍しいけれども、探せば意外とかかっている人がいる病気です。

血液の病気は、こうすれば必ず完治する! というものではありません。
なので、知り合いに血液関係の病気のいる方は、決して血液に関する冷やかしはしないようにしましょうね。太っている人にデブって言うのは禁止。痩せている人にガリって言うのは失礼。それと同じ。

まあ、こういう病気の人もいるんだな‥‥‥と小説家書かれる方は、参考にしてくださると嬉しいです(^o^)


長い文章ですが、結論としては
三日以上絶食した人に固形物を与えない。(通常の量なんて無理)
五日絶食すると五キロは体重が落ちる。でもすぐ戻る。
でしょうか。←え?
いや、だって、絶食続いているのに、急に固形物とか油ものとかカレーとか食べさせようとする登場人物を見ると吃驚するんだもん!!!!
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さてさて、その当時の担当医のN先生、リネン室に私を呼び出しました(笑)
二人きりになるために。
いや、色っぽい意味ではなく、相部屋だったから。

投薬開始して二ヶ月ほど経過していました。
副腎皮質ステロイド、血小板を増加させる薬共に効き目がない。
本来なら半年は投薬をして、それから判断するところだけど、学生さんだからそれをすれば留年決定。脾臓摘出手術を受ければ、1月には退院ができるとのこと。

入院したのが11月。11、12月と様子を見て、副腎皮質ステロイドでは症状がまったく変わらなかったそうです。あんだけ副作用出たのに‥‥‥

で、手術する? という問いに
「します♪」
と即答のふじさわ。

あーー、今思い出してもN先生の唖然とした顔が鮮明に。
先生としては、10代女子の体に傷をつけるのがイヤだったみたい(^^;)
ちなみに、現在は脾臓摘出してもレーザーが使えるので小さな傷が脇腹に出来るだけだそうですが、私が入院していた20年以上前は胸の下から臍の上まで、10センチ以上の傷跡が残る切開手術です。
調べてビックリした。
今はレーザーか。すごいな~。

ただ、問題は脾臓を摘出しても、それでも治らない人がいるということ。脾臓を摘出して、他の問題が出てきちゃう人もいるということです。

説明は受けたんですが、ふじさわ、
「留年するよりいいです! してください!!(^o^)」
‥‥‥N先生、呆然。
ごめん、おじいちゃん先生なのにビックリさせて。

実は、この二ヶ月の投薬療法の間に、祖母が亡くなりました。
四階なのに、お見舞いの許可がほとんどおりず、一度だけ、数値が物凄くいい日にお見舞いが出来ただけでした。
やせ細った祖母。
私が誰かなのかもわかりませんでした。
葬式に参列されることも許されず、父は、祖母の葬式で「娘を連れて行かないでくれ」と泣いたそうです。



感動する場面なんですが、N先生、「これは治る病気、もしくは日常生活を送れるようになる病気です」と言っていたんですが‥‥‥
未だに、親戚に会うとネタにされます。(あんまり親戚とやり取りがないので会いませんけど)

ありがたいことだと思いつつも、亡父、思い込みが激しかったんだよね‥‥‥
と思ってしまう冷静な娘です。ごめん、父。

二ヶ月の入院生活。
居心地がいいのですが(食っちゃ寝して、デッサンして課題の勉強して‥‥‥授業のノートは程々にでした)、なによりの不安が、留年して友達を先輩と呼ばなければならない!! というのが「嫌!!!」ということでした。

え、悩みがそれしかない?
だって、N先生が治るって言ったもん。
という感じでした。

今、思い返してみても
・入院した時に従姉がアップルパイを大量に差し入れてくれて、父母は祖母の看病にかかりきりでこっちにはまったく来なかったので(日に数分顔を出しただけ)、食べていいといわれて毎日アップルパイで幸せだった。
・コアラのマーチを母が買ってきてくれたけど、自分で売店にいけないから、なくなると悲しいから一日三コアラだけ食べて、切ない思いをしていた。(子供だから、看護師さんに頼んで買ってきてもらうっていう発想がなかった)
・友達が大量に貸してくれた宇宙皇子大ブーム。っつーか各務ちゃんが大好きだったので、後半の展開に吃驚仰天。
・同人誌の原稿作ってたら看護師さんに覗かれた。
・部屋で段ボール箱をデッサンするために、薬の空き箱をもらった。
という感じののほほん振り。

毎日の採血が辛かったくらいかな。
後は見舞いに来た友人が血液の病気だったから「エイズでしょ」と冷やかしてきたことに、カチンと来たくらい?
(病気で入院している人に、病気の冗談は通じません。特に悪気のある冷やかしは腹立たしいだけ。まだ根に持ってるよ! エイズの人に対しても失礼だ!!)

二ヶ月入院生活を送って、そろそろこの生活に飽きてたんですよね。
手術して退院できるなら、いいかな~という。

あああ、私、本当に小説の主人公とかに向いていない、悩まない人だな~。
さてさて、ふじさわですが、骨折して手術‥‥‥となっているのに、文章を読む感じ、動じていないように感じられたと思います。

それもそのはず(笑)
ふじさわ、実は20年以上前に大病を患っておりまして、未だに完治! と断言できない状態なのですが。まあ、実際は完治していますが、この病気のため、ずっと体調には気を遣わなければいけないのです。

その病名は
「特発性血小板減少性紫斑病」

Wikiの特発性血小板減少性紫斑病

難病情報センターさまの特発性血小板減少性紫斑病

特定疾患です。

小説書いていると、長期入院してて、必ず治る病気ないかな~とか不穏なことを考えることがあるかと思うのですが(苦笑)
この病気、投薬もしくは脾臓摘出が合えばそれほど死ぬ確立は高くはないそうです。
なので、半年程の入院や、留年理由にするにはいい病気だと思います。←おいおい。
(長期化する方はかなり長期化します。ご注意を)

特発性血小板減少性紫斑病
とは、簡単に言えば脾臓(ひぞう)が頑張り過ぎて血液の中の血小板を破壊しまくり、内出血をさせてしまう病気です。
血小板数が
 基準値:15万~40万/μ
 薬で10万/μL以上を保てるなら薬療法。半年経過しても改善しなければ脾臓摘出する場合もあり。
 緊急入院、非常に危ないのは2万/μL
ふじさわの場合は、2千/μL台になっており、全身青あざだらけ。ちょっと頭とか内臓ぶつけていたら死んでいても不思議でない状態だったとのことです。

血小板は血を止める役割をしてくれます。
それの数が少なかったら?
血がドバドバでちゃう(笑) 内出血だらけになっちゃうわけです。青あざってのんびり言っていても、これが脳や内臓の中に出来てしまったら?
もう、即→死。なわけです。
あー、怖いですね。

ちなみに当時16歳。
高校一年生の文化祭が終わった日に、重いものがまったくもてない。体中に青あざが出来てる。周囲から病院に行け!!と言われて、翌日病院に行ったら特発性血小板減少性紫斑病と診断されて、即入院ということになりました。自分吃驚。友達も吃驚。

・外出禁止
・入院している階の外に出るのはもとより、トイレ以外病室の外に出るの禁止
・運動禁止
・ベッドの上でおとなしくしていること

と、いう感じでした。
病室は四人ベッドの入り口近くの右のベッド。
血液内科の人が多い病室でした。
入院したのは隣の市の病院で、当時はJR駅に近い場所にありました。(現在は移転して田んぼのど真ん中)

即入院なので荷物はすべて父母が運んでくれましたが、ここで問題が‥‥‥
実は、祖母が危篤状態だったのです。
私より先に四階に入院していたんですが、父母は二人の入院患者を抱え、のほほんとしている娘よりも危篤状態の祖母の元へ行くことが多かったです。
なので、することもなく、学校の課題のデッサンをやりまくってました(笑)
(ちなみにふじさわ、工業高校のデザイン科卒なのです)

最初は投薬療法。
今は抗菌剤でピロリ菌の除菌を行う方法が正式保険適用になっていますが、私が入院していた頃はプレドニンという副腎皮質ステロイドの投薬が一般的でした。
副腎皮質ステロイドの副作用としては、
・顔が浮腫む(本当にぶよぶよになるの)
・吹き出物が大量に出来る(吹き出物というよりも、顔に凹凸が出来る感じ)
という乙女としてはいやんな症状ばかり出ておりました。
(他にもいろいろ副作用があるこわーい薬なんですが、私はこれだけでした)
この頃、出会った人は、私が退院して顔面が変わって行くのをどう思ってたんだろう(苦笑)

通常は、これで半年程経過を見ます。




学生さんなら留年決定ね。
さてさて、現代小説を書いている方への情報? エッセイ? です。

先生の回診ですが、病状によって違いますね~。
高校一年の時に、長期入院した時は、(あれ? なんか日本語変?)病気が難病指定だったためか、先生が新人さんとか看護士さんとか引き連れての、ドラマのような回診でした。
市の大きな病院だったのもあって、午前中に
「先生~の、お~な~~~り~~~(語尾下がる)」
みたいな感じ。

それが、骨折時は先生がひとりでふら~って現れて、「どう? どう?」って感じ。
頭痛担当の内科の先生も、病院長も、M先生も。
ふらっと現れて、ちょっと見て、ふらっと去っていく。
血圧とか測る機械(なのかな?)を押して(大きさはスーパーの買い物カートが三分の一くらいになった感じ。それにお父さんスイッチ付けたみたいな大きさ。あー、わかりにくい表現だな‥‥‥)ひょこっと現れる。



病院に寄って、違うのね。


200床以上の大病院とかだと、回診時間が決まっていて、午前は回診があるのでお見舞いは午後からとか指定がある病院もあります。(お見舞い時間は朝9:00~夜9:00で回診があったら部屋から出てね。っていうところもありますね)

主治医の回診は時間が決まっていて、看護士さんは朝昼晩とチェックしに来てくれて、ちょこちょこと顔も出してくれるっていう感じです。ちなみに看護士さんの朝晩のチェックは点呼を兼ねていることも多いです。
この点呼時間までには病室に戻るようにって。
 さてさて、現代小説を書いている方への情報? エッセイ? です。

入院している時ですが、通常パジャマから着替えません。
なので、入院が急に決まると「パジャマ!!!」ってなりますね~。

ふじさわの場合、夏の整復手術の時は長くなったのとリハビリ前提だったので、
Tシャツ&綿のパンツ(スパッツほどピチピチしてないパジャマの下みたいな、ホームウェア)でした。
リハビリするとけっこう汗をかくので、夏場はこの格好でしたね。

それで、パジャマから洋服に着替えない代わりに、朝にパッド付きのタンクトップを着込んでました。
やっぱりブラなしは恥ずかしいので(^^;)

誰か着たら着替えればいいや~って意外と通用しないです。
朝からちょこちょこちょこと誰かが覗きにきます。
まあ、ほったらかしはないですよね、病院ですから(笑)

ちなみに冬場の抜釘手術時は、ユ○クロの上下セットのホームウェアを三組購入。



よれよれのパジャマしかなかったから‥‥‥
いや、中学三年生の時に作ったパジャマをまだ着ている自分にびっくり(^^;)
パジャマってなかなか痛まないから早々買い換えないよね。
ね‥‥‥
ね?
そうだよね?

ちなみに、どちらも袖や裾にゴムが入って「きゅっ」ってなるのは避けた方がいいです。
採血の時に大変。点滴の時に大変。リハビリの時に大変。
通院する時にもこれは注意した方がいいですよ~。
採血の時に腕を捲くるんだけど、冬場だといろいろ着ているので捲くれない。とほほ。

あと、冬場に長期入院した時は半纏持参してました(笑)
いや、だって病院内意外と寒いんだよ。特に古い病院は。
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